南山田

地域紹介

南山田城址と後藤霊社(神社)

南山田城址

 南山田の中央には、
約100m四方の小丘があります。
南半分は整地されて児童公園になっていますが、
北側から東側の藪には、
三段の平坦面と土塁址があり、
後藤又兵衛基次の居城
「南山田城」の址といわれています。

南山田城址

 基次が城主となったのは、天正5年(1577年)、18歳の時ですが、
翌年には、城主の地位を失っています。
 黒田家に仕えた後、出奔した基次は浪人となって帰郷し、
この城の北にある「射場」の屋号を持つ大谷家(幸田家?)で、 しばらく隠棲したと伝えられています。

後藤霊社(神社)

後藤霊社

 児童公園の北角には、
後藤又兵衛基次と
一族を祀った後藤霊社があります。
 天明6年(1786年)に
「射場」の大谷長左衛門氏が、
畑にあった古塚を
この場所に勧請したと伝えられています。
後藤又兵衛についてはこちら

 基次を含め14名を祀ったこの霊社と、城址の藪の中にある社に、
道開きと宵宮の朝にお参りし、祭りの安全を祈願するのが恒例となっていて、
宵宮の屋台巡行時にも霊社の下で(丘の上に、屋台は上がれないので)
拍子木を入れて敬意を表しています。

福田寺

林光山 福田寺

 南山田城址の南西には、
大化元年(645年)
法道仙人開基といわれる
林光山 福田寺があります。
 この寺は、後藤又兵衛基次が深く信仰し、
一族の菩提寺であったとも言われ、
本尊阿弥陀如来像や如意輪観音像
(共に室町初期の作)
などが祀られています。

天台宗兵庫教区 寺院大図鑑 福田寺

福田寺

蛇塚

大蛇と蛇塚

 これも後藤又兵衛にまつわる話ですが、次のような話が伝わっています。

 むかし、南山田の池田という所に大蛇がいて、田畑を荒し回り、お百姓たちを苦しめた。
近くの城山に小さな城があって、ここに後藤又兵衛の一族が居た。
近くの射場というところで武士たちが弓の稽古をしていたが、あるとき村人から大蛇の話を聞き、
その中の腕自慢が、拙者が退治しようと名乗り出た。
 やがて城山から大蛇が出た。男は射場から弓を射ると見事大蛇に命中した。
ところが大蛇は余りに大きかったので、 頭の方を寺垣内に埋め、胴体を西畑に、尻尾は奥の谷へ埋めた。
それで蛇塚というそうな。 (姫路市史 第15巻上 別編 民俗編)

 にわかには信じがたい話ですが、
寺垣内には今でも蛇塚と呼ばれる塚があり、
また西山田にも、この蛇退治は、
水神の使いの大白蛇殺し、
として伝わっているようで、
全くの作り話とは言えないようです。

蛇塚

常夜燈

村中の常夜燈

 竹宮神社の境内ではなく、村中に神前型の大きな常夜燈があります。
常夜燈は、神仏に帰依するために、心の汚れを焼き清める役割をもつ「火」を灯して、
家内安全を祈るものとされています。
 当時はここが集落の入り口だったのでしょうか?
この村が栄えるようにと「當邑栄」の文字が大きく刻まれています。

「明治十二屠維単閼年 夾鐘吉旦建之」
「屠維」は「己(つちのと)」、「単閼」は「卯」、「夾鐘」は2月の別称ですので、
明治12年(1879年) 2月に建立されたことが分かります。

常夜燈

常夜燈

地蔵堂

福地の六面幢六地蔵

 加西市との境付近、
県道81号線と117号線の
合流地点のそばに地蔵堂があり、
六面幢六地蔵が祀られています。
 石幢の六面に六体の地蔵菩薩が彫り出され、
それぞれが宝珠や幢を持つなど、
異なった姿となっています。

 どなたがお世話をされているのでしょうか?
花や供え物がされており、お堂の奥には、
お参りする際に唱え易いようにでしょうか、
「おん かかか びさんまえい そわか」
と地蔵菩薩真言などが掲示されています。

六面幢六地蔵