南山田

地域紹介 - 後藤霊社(神社)

後藤霊社(神社)

由緒

 後藤霊社について、次のような由緒記が
福田寺に残されているそうです。

播州後藤氏の栄光―後藤又兵衛基次の系譜
より抜粋。

大谷家と後藤家

「後藤霊社由緒記」
夫レ神東郡蔭山庄南山田村古城跡ハ、正二位左大臣魚名十七代ノ後胤ニシテ後藤兵衛尉実基四世ノ孫、
山田郷地頭讃岐守基秀、其ノ子三郎左衛門尉基明ハ則チ赤松家ノ幕下ナリ。文和年中武功ヲ顕ス。
同伊勢守基信ハ秀吉公ノ為退転シ民間ニ下ル。
其ノ後、後藤又兵衛尉ハ秀頼公ノ幕下トナリ、大阪落城ノ時討死ス。
然ルニ基秀ノ家臣子孫ハ今尚有リ。
于時天明五年乙巳歳大谷長左衛門病患ニ遇フ。
故ニ同村ノ朋友賀屋ノ辺ノ神草村ニ盲人アリ。占ヒテ曰ク、是ノ病ハ古塚ノタタリナリ。
大谷氏曰ク、我ガ畠ノ中ニ後藤某ノ塚アリ。盲人曰ク、其ノ塚ノ所ヲ祀ルベシ。
即チ後藤明神トシテ祀。故ニ大谷氏加西郡磯崎山ニ来リ吾ニ頼ム。
則チ自身ノ持山ノ古城跡ニ後藤霊社ヲ勧請シ奉リ、持林ヲ寄付ス。
其ノ時到リ将来ノ枯木・枯枝ハ本願長左衛門方ニ取リ、祭礼ハ九月二十二日也。所謂是神約ナリ。
于時菩提寺現住曰ク、古塚ハ之ニ築キ奉リ、吾ガ墓所ニ一遍ノ廻向ヲ申スベク物語ル。
大谷氏来リテ此ノ趣旨ヲ告ゲ、故ニ古塚ハ福田寺ノ山ニ遷シ、子孫繁栄ヲ有之様祈ル也。
     天明六年丙牛二月
                              磯崎山別当     顕明法印誌ス
                              本願主        大谷長左衛門
                                           (以下略ス)
因ニ後藤霊社祭神ハ左ノ如シ
後藤新左衛門尉飛騨守 基国
       〃       次郎兵衛尉
       〃       与次郎市正
       〃       将監、大塚将監
       〃       又兵衛尉
       〃       又助
       〃       弥八郎
       〃       佐太郎
       〃       左門(但し又兵衛嫡子也)、基徳
       〃       又市郎、八助
       〃       与兵衛、佐市右衛門
       〃       定之烝
右後藤家各霊為追善奉御号読誦者也
                              山田村福田寺    詮隆
     天保十三年寅年七月吉日

現代語訳してみました(間違っているかも)

「後藤霊社由緒記」
そもそも南山田の古城跡では、正二位左大臣藤原魚名の17代子孫であり、後藤実基の4代子孫である
後藤基秀と、その子基明が、赤松家の幕下として1352年から1355年ごろ活躍した。
春日城主後藤基信は、豊臣秀吉の為に落ちぶれて民間に下った。
その後、後藤又兵衛は、豊臣秀頼の幕下となって大阪夏の陣で討死した。
しかし、基秀の家臣子孫は、今尚この地に住んでいる。
時に1785年、大谷長左衛門氏は病を患った。
そこで夢前町神種に盲目の友人がいて、占ってもらうと、「この病は古塚の祟りだ」と言われた。
大谷氏は「畑の中に後藤なにがしの塚があります」と言うと、「その塚の所を祀りなさい」と言われた。
すぐに後藤明神として祀り、そして加西市磯崎神社の私の所へ
「自分の持ち山の古城跡に後藤霊社を分祀し、林を寄付します。
将来に渡り、枯木・枯枝は、本願主である長左衛門宅で引き取り、
祭礼は9月22日とすることを誓います。」と頼みに来た。
同じ頃菩提寺の住職が「古塚はこの寺で奉り、功徳を墓所の御先祖様へ回し向けましょう」と言い、
大谷氏は、この趣旨を告げて、古塚を福田寺の山に遷し、子孫繁栄を祈った。
     1786年2月
                              磯崎山別当     顕明法印記録する
                              本願主        大谷長左衛門
                                           (以下略)
従って後藤霊社の祭神は次の通り
後藤家 以上の後藤家の霊を追善供養した。
                              山田村福田寺    詮隆
     1842年7月吉日

後藤又兵衛基次

略歴

  数多くの軍功や波乱の人生で知られ、多くの逸話がありますが、主なところだけまとめてみました。
  

永禄 3年 (1560年) 4月10日 後藤基国の次男として生まれる
天正 5年 (1577年) 南山田城主となる
天正 6年 (1578年) 3月 赤松則房が秀吉と和睦
天正 6年 (1578年) 5月11日 春日山城落城
南山田城主の地位を失う
黒田孝高に召し抱えられる
天正 9年 (1581年) 仙石権兵衛秀久に預けられる
天正14年 (1586年) 九州征伐
仙石秀久改易により、黒田長政に呼び戻される 知行100石
黒田家臣栗山利安に預けられる
文禄元年 (1592年) 3月 文禄の役
文禄元年 (1592年) 6月13日 平壌攻略
文禄 2年 (1593年) 1月 8日 平壌撤退
慶長 2年 (1597年) 1月 慶長の役
慶長 5年 (1600年) 9月15日 関ヶ原の合戦
慶長 5年 (1600年)12月 福岡城の端城、大隈城(益富城)1万6千石を賜る
慶長11年 (1606年) 黒田家を出奔、山田に帰郷
慶長16年 (1611年) 京都で浪人生活
慶長19年 (1614年) 大阪冬の陣
慶長20年 (1615年) 5月 6日 大阪夏の陣にて討死
西岸寺