南山田

後藤又兵衛ゆかりの地 - 大阪府藤井寺市道明寺

大阪夏の陣

道明寺

 大阪阿倍野橋から近鉄南大阪線で約20分、
道明寺駅付近は、大阪夏の陣の古戦場です。
駅の西側には、又兵衛が陣所としたと伝えられる、
蓮土山道明寺や道明寺天満宮があります。
 この地域は、菅原道真の祖先である、
土師氏の根拠地で、氏寺土師寺が道真の死後、
彼の号より「道明」寺と改められたとされています。
また周辺には、応神天皇陵や允恭天皇陵など、
古市古墳群があり、これらに関与したのが
土師氏であるとされています。
(殉死者の代わりに埴輪を発明した土師職)

 冬の陣の後、大阪城は堀を埋められた為、
城で徳川軍を迎え撃つことは困難となった。
又兵衛は軍議の際、天王寺口での迎撃作戦を
否定し、平地ではなく狭い地形を利用できる
大和から河内へ出て来る大和口での迎撃を
主張した。
 又兵衛は先陣として、2,800の兵を率いて
道明寺に到着したが、すでに徳川軍は
大和口を抜けて展開していた。

道明寺
(道明寺楼門)
明治の神仏分離により天満宮境内から移転された

道明寺天満宮
(道明寺天満宮)
大阪天神祭と同日ここでも天神祭が行われている

石川河川公園
(道明寺側から石川を挟んで小松山方面を望む 中央小高い山が小松山 その右側が玉手山)

小松山・玉手山

 作戦が破綻したことを悟った又兵衛は、後続の部隊を待たずに、石川を渡って要所小松山を占領した。
小松山の争奪をめぐって激しい戦闘が繰り広げられたが、
徳川方、水野勝成、本多忠政、松平忠明、伊達政宗の計2万以上の兵力には敵わず、
小松山を下って突撃を敢行、伊達勢の銃撃により被弾した。
腰を撃たれ歩行不能となった為、側近の吉村武右衛門の介錯により自害した。

 小松山の南、玉手山は公園として整備され
(玉手山公園は柏原市にあります)
その一角に「後藤又兵衛基次之碑」があります。
隣には、「吉村武右衛門之碑」が寄り添うように
建てられ、しだれ桜が植えられています。
立派な石碑の裏面にはこの地で散った
彼の武功と信念が次のように称えられています。

後藤又兵衛基次之碑
(後藤又兵衛基次之碑)

 後藤又兵衛小傳

 蓋世の豪傑後藤又兵衛基次は 播州三木城主別所長治の家臣 後藤新左衛門基國の子として
兵庫縣加西郡加茂村に生る 八才の時三木城の陥落と共に父は討ち死をなす
又兵衛は黒田官兵衛孝高とその子長政に仕え 豊臣秀吉の朝鮮征伐にも長政と共に従軍し
普州合戦に於て敵味方に驍勇を謳わる 後に長政と共に博多に移り 長政五十一万石を領し
又兵衛は一万六千石を与えられて小隈城主となる 戦國の世とは云え槍一筋で一城の主となるは
稀有の士たるを証す 然るに時移りその主長政と相容れず 自ら城を捨て
浪人となり家士多く従い世に乞食大将の異名喧傳さる  まさに一世の快男子なり
 秀吉の死後大阪方の勢力衰え諸大名相次いで徳川方になびき 東西の風雲急を告ぐるや
慨然として道義に感じ 郷党の子弟をひきいて形勢不利な大阪方に馳せ参ず
慶長十九年大阪冬の陣に木村重成等と共に大和川に戦い 東軍の上杉 佐竹の軍を破る
その後和議なるも元和五年再び大阪夏の陣の合戦起る
東軍の先発 水野 本多 松平 伊達等の兵三万五千余の軍勢に対し
西軍は又兵衛と薄田隼人等六千余の軍勢を以て河内道明寺 國分附近迎え撃つ
勝松山をめぐりて敵味方必死に攻防の限りを盡くすも 衆寡敵せず又兵衛も敵弾に当り重傷を負う
我が首を敵にさらされるは末代迄の恥辱なりとする又兵衛は 五月六日近くの片山深田にて自決し
然も家士に命じてその首を人知れず土中に埋めしむ
道義を貫いた又兵衛こそ 日本民族の讃うべき信念の人物なり 然もこの蓋世の人物に碑なし
依ってここに顕彰碑を建立し 永遠に人情を喚起し道義の亀鑑を示すものなり
                                            今 東光 記
 昭和四十四年四月
                                      柏原ライオンズクラブ建立

 又兵衛は、生まれは加西市(山下)とも言われ、南山田には祖父の家があったといわれています。
三木城陥落時(1580年)に八才とありますが、1560年生誕とは違う説に基づいているようです。
基國についても父ではなく伯父であるという説もあり、出生については諸説あります。
 浪人時代、故郷南山田に隠棲していた又兵衛は、
一族家臣を率いて、大阪へ向かったとされていますで、ここでいう郷党の子弟とは、
共に九州より従った家臣と南山田の射場一族でしょう。