南山田屋台

屋台紹介 - 南山田屋台


 南山田の屋台は、姫路市内では数少なくなった、反り屋根型布団屋台です。
大正期に新調され、以来大切に守り継がれてきましたが、
平成18年に老朽化のため、泥台・四本柱・高欄など、大改修を行いました。

 高欄掛を加え、幕を上げるなどして
新たな装いとする一方で、
井筒より上の斗組・繁垂木
水切・布団などの部分は、
以前の姿を受け継いでいます。

南山田屋台

南山田屋台 - 狭間


 狭間の彫刻は、飾磨彫刻師・堤義法(1891〜1955年)の作品です。
大正期の屋台新調時に制作されたものだと思われます。
破損など傷みが激しいですが、補修しながら大切に守り継がれています。
 場面は、「佐久間玄蕃秀吉本陣乗込みの場」「天の岩屋戸」
「平維茂紅葉狩」「桜井駅楠公父子訣別の場」です。

佐久間玄蕃秀吉本陣乗込みの場

佐久間玄蕃秀吉本陣乗込みの場

 屋台前側の狭間は、
「佐久間玄蕃秀吉本陣乗込みの場」です。
 羽柴秀吉と柴田勝家が、織田信長亡き後
覇権を争った「賤ヶ岳の戦い」において
勝家側の武将として戦った佐久間盛政。
勇猛さから鬼玄蕃と称された彼は、
中川清秀の砦を急襲、緒戦を勝利に導きます。

 しかし勝家からの撤収命令を拒否して軍勢を置き続けた為、
丹羽長秀の進軍、美濃返しで戻った秀吉の大軍の前に劣勢に立たされます。
劣勢の中、秀吉軍の隙を突いて本陣に切り込んだとされるのが
この「佐久間玄蕃秀吉本陣乗込みの場」と言われています。

 味方の前田利家の戦線離脱などもあり、盛政は敗戦。
落ち延る途中に捕らえられ、秀吉に引き渡されます。
秀吉の家臣となることを断った彼は、市中引き回しの後刑死されることを望み、
宇治で斬首されたと言われています。

天の岩屋戸

 屋台後側の狭間は、「天の岩屋戸」です。
 弟である建速須佐之男命(スサノヲ)の
暴挙に怒った天照大神(アマテラス)が、
天岩屋に引き篭ってしまった為、
世界は暗闇となり、あらゆる災いが起こります。
 高天原の神々が対策を講じ、
八意思兼命(オモイカネ)の案により、
様々な儀式を行った様子が表現されています。

天の岩屋戸

 先ず常世の長鳴鳥(鶏)を鳴かせ(中央手前)、
天太玉命(フトダマ)が玉と鏡と幣を付けた太玉串を捧げ持ち(右端)、
天児屋根命(アメノコヤネ)が祝詞を唱えて、アマテラスを称えたます(左端)。
天宇受売命(アメノウズメ)が踊りだすと(左手前)、八百万の神々が笑い賑やかな雰囲気となります。

 外の騒ぎが気になったアマテラスが、岩戸を少し開けて(中央奥)外を覗くと、
すかさず岩戸の脇に控えていた天手力男命(アメノタヂカラオ)が(中央奥)、
アマテラスの手を取って外に導いたとされています。

 岩戸の上には、アマテラスが再び岩屋に戻れないように入口を塞ぐ為の注連縄も見えます。
アマテラスを祀る竹宮神社に相応しい狭間とも言えます。

平維茂紅葉狩

平維茂紅葉狩

 屋台左側の狭間は、「平維茂紅葉狩」です。
「紅葉狩」は、信州戸隠に伝わる
鬼女にまつわる伝説(紅葉伝説)を
もとにした能の一曲です。

 紅葉が美しい山中にて。
高貴な風情をした女が、侍女を連れて紅葉見物の宴を催しています。
鹿狩りの途中に宴のそばを通りかかった平維茂の一行は、誘われるまま宴に加ります。
酒を勧められ、つい気を許した維茂は酔いつぶれ、眠ってしまいます。

 八幡大菩薩の眷属、武内の神(武内宿禰)が、維茂の夢に現れて、
この女が戸隠山の鬼神であることを告げ、八幡大菩薩から下された神剣を維茂に授けます。
 夢から覚めた維茂の目の前に、鬼女が姿を現し襲いかかってきます。
維茂は勇敢に立ち向かい、激しい戦いの末に神剣で鬼女を退治します。

桜井駅楠公父子訣別の場

 屋台右側の狭間は、
「桜井駅楠公父子訣別の場」です。
「太平記」の名場面のひとつで、
楠木正成とその子、正行の今生の別れ。
 この狭間が制作された大正期には、
天皇への忠誠を伝える美談として
教科書に必ず載っていた逸話です。

桜井駅楠公父子訣別の場

 建武の新政から離反した足利尊氏は、落ち延びた九州で勢力を立て直し、
建武3年(1336年)、山陽道を京都へ向い東上します。
迎え撃つ朝廷方は、新田義貞を総大将として兵庫に陣を敷きます。

 楠木正成は後醍醐天皇に尊氏との和睦を進言するも聞き入れられず、尊氏追討を命ぜられます。
死を覚悟して、湊川の戦場に赴く途中、桜井の駅で嫡子正行を呼び寄せて、故郷へ帰るよう告げます。
「最後まで父上と共に」と懇願する正行に対し、
「自分が討死した後、お前は身命を惜しみ、忠義の心を失わず、いつの日か朝敵を滅せ」と諭し、
帝より下賜された菊水の紋が入った短刀を形見として授け、今生の別れを告げます。

 この後、正成は湊川の戦いで戦死。尊氏は入京して室町幕府を開くこととなります。
後醍醐天皇は捕虜となったものの吉野に逃亡し、南朝を創始します。
正行は亡父の遺志を継いで、楠木家の棟梁となり、南朝方として戦います。

南山田屋台 - 高欄掛


 高欄掛は、平成18年の屋台改修時に新調追加されました。
祭典委員の協議により、鷲・鯉・蛇・鬼の退治物に決まり、制作されました。
龍や虎という案もありましたが、神社や屋台に配された龍虎を退治するものではないという事で、
図柄には入れない事になりました。
 人物よりも退治されるものを大きく配し、金色が映えるよう、他は淡い色を使用しています。
 後藤又兵衛以外は、特に人物の指定はしていないのですが、図柄は、
「隠岐次郎左衛門怪鳥退治」「坂田金時鯉退治」
「後藤又兵衛大蛇退治」「源頼光酒呑童子退治」と比定されます。

隠岐次郎左衛門怪鳥退治

 屋台前側の高欄掛は、
「隠岐次郎左衛門怪鳥退治」です。
「太平記」にある逸話で、
建武元年(1334年)の秋、
毎晩のように紫宸殿の上に現れて
人々を恐れさせていた怪鳥を
隠岐次郎左衛門広有が
鏑矢で射止めるというものです。
(図柄では短刀を持っていますが・・・)

隠岐次郎左衛門怪鳥退治

 この怪鳥は「以津真天」とも呼ばれ、戦乱や飢餓などで放置された死体に止まり、
「死体をいつまで放っておくのか」との意味で「いつまで、いつまで」と鳴くとか、
そうして死んだ者たちの怨霊が鳥と化したものとされています。
 鳥は出来るだけ大きく、ということで翼を広げ、高欄掛からはみ出すように制作されています。

坂田金時鯉退治

坂田金時鯉退治

 屋台後側の高欄掛は、
「坂田金時鯉退治」です。
「鯉のぼり」や「錦鯉」など、「鯉」には
退治されるような悪い印象は少ないですが、
何でも食べる食性の為、他の水生生物を圧迫する
害魚とされることもあります。
 また「登龍門」「鯉の滝登り」など
激流を登りきった鯉は龍になるという
伝説もあるように、特に大きな鯉は、
恵みとともに災いをもたらす龍と
同一視されてきたのでしょう。

 坂田金時(公時)の幼名は、金太郎。足柄山で熊と相撲をとる元気な子供で、
後に頼光四天王の一人となって、丹波国大江山に住む酒呑童子を退治します。
 鯉と金太郎がよく描かれるのは、この逸話と「鯉の滝登り」のように、
男の子の立身出世、逞しく健康にとの願いを込めて描かれるのでしょう。
 短刀を持って鯉を退治するこの図柄としては、「鬼若丸の鯉退治」の方が相応しいかも知れません。
鬼若丸は武蔵坊弁慶の幼名。比叡山の池の巨鯉を一人で退治し、僧達を驚かせたという逸話があります。
 この人物が金時か弁慶か、見る人の想像にまかせるとして、鯉が身を捩じらせて暴れる様を表した、
躍動感ある高欄掛となっています。

後藤又兵衛大蛇退治

 屋台左側の高欄掛は、
「後藤又兵衛大蛇退治」です。
「地域紹介」でも紹介していますが、
南山田には、大蛇退治の伝説があります。
(伝説では又兵衛の家臣が弓矢で退治)
南山田出身で「槍の又兵衛」と称された
彼に敬意を表し、
槍で蛇を退治する図柄としています。

後藤又兵衛大蛇退治

 大蛇退治と言えば、建速須佐之男命(スサノヲ)が八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治した神話が有名ですが、
大蛇は、水を支配する龍神を表し、暴れる大蛇は河川の氾濫を象徴すると言われます。
それを退治するということは、治水を意味します。
 渓流を堰き止めた溜池の多い南山田も、堤防決壊による被害が繰り返されてきたようで、
戦国末期に南山田に城を築き、集落を形成していった後藤一族の治水事業が、
伝説の元になっているのかも知れません。

源頼光酒呑童子退治

源頼光酒呑童子退治

 屋台右側の高欄掛は、
「源頼光酒呑童子退治」です。
 源頼光は平安時代中期、
藤原道長に臣従して官職を得て、
「摂津源氏」の祖となった武将です。
 京で悪行を働く鬼(酒呑童子)の
討伐を命じられた頼光は、
坂田金時ら頼光四天王を率いて、
酒呑童子の住処、大江山に向います。

 住吉・八幡・熊野の神々の化身である三人の翁から授かった毒酒を飲ませ、
動けなくなった酒呑童子の首を、頼光が打ち落とします。
打ち落とされた首が、空中に高く舞い上がり、牙をむいて飛び掛かって来る場面を図柄としています。
首だけの鬼なので、空いた下半分には欄干を配し、首が飛んでいることを表しています。
結果として、高欄掛の中に高欄(欄干)のある図柄となっています。

屋台紹介 - 北山田屋台


 北山田の屋台は、昭和54年に反り屋根型布団屋台から、現在の神輿屋根型屋台へ新調されました。

平成13年に、幕と高欄掛を新調、
平成17年に、錺金具の総メッキと
伊達綱を新調しています。

北山田屋台

北山田屋台 - 狭間


 狭間の彫刻は、漆塗箔彩色の豪華な狭間です。
 場面は、「屋島の合戦景清の錣引き」「関羽と黄忠の戦い」
「曽我五郎時致大磯行の場」「宇治川の先陣争い」です。

屋島の合戦景清の錣引き

屋島の合戦景清の錣引き

 屋台前側の狭間は、
「屋島の合戦景清の錣引き」です。
 屋島の合戦といえば、那須与一が
平家の船に立てられた扇の的を
一矢で射とめた話が有名ですが、
「錣引き」は、その直後の話です。

 与一の見事な弓に感極まった平家側の男が、舞を披露し始めます。
これを見た伊勢三郎が、「あれも射よ」と与一に命じ、与一がその男を射落とすと、
それまで与一に喝采を送っていた平家の武者は静まり返り、源氏は更にどよめきます。

 激怒した平氏側から、三人の武者が渚に押し寄せます。
真っ先に駆けた美尾屋十郎の馬の胸を矢が射抜いて、十郎は馬から飛び降りたが、
大長刀を振りかざした武者が飛び出してきて、十郎に打ち掛かります。
藤原秀郷の子孫で、「悪七兵衛」の異名を持つ、藤原(平)景清です。
十郎は太刀を抜いて、必死に応戦するが、相手の勢いに堪らず、身を屈めて逃げ出します。
これを逃さじと、景清は十郎の甲の錣(しころ)を掴み、互いに甲の錣を引き合いますが、
錣が途中から引き千切れて、十郎は錣の無い甲を被って味方の騎馬の中へ逃げ込みます。

十郎は「景清の腕の強さ」を、景清は「十郎の首の強さ」を互いに称えたと伝えられています。

関羽と黄忠の戦い

 屋台後側の狭間は、「関羽と黄忠の戦い」です。
「三国志」の一場面です。

関羽と黄忠の戦い

 関羽率いる劉備軍が長沙を攻めた際、韓玄配下の黄忠がこれを迎え撃ちます。
互角の一騎討ちのなか、馬が躓き落馬した黄忠に対し、関羽は武勇を認めてこれを見逃します。
恩義を感じた黄忠は、再戦時に関羽の兜の緒に矢を命中させ、関羽の命を奪うことなく撤退させます。

 命を懸けた武将同士の美談。なんでしょうね。ここで終われば。
この事で黄忠は、韓玄に敵軍に内応しているのではと疑われ、捕縛され処刑されそうになります。
処刑直前に反乱で韓玄が殺害されると、黄忠は劉備に仕えます。

 後に劉備が黄忠を後将軍に任命した際、関羽は黄忠を「老兵」と侮って
同列の前将軍になることを拒否したと云われています。

曽我五郎時致大磯行の場

平維茂紅葉狩

 屋台左側の狭間は、
「曽我五郎時致大磯行の場」です。
歌舞伎十八番の一つ「矢の根」の
一場面ですです。

 曽我祐成と曽我時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討った事件は、
「曽我兄弟の仇討ち」として「赤穂浪士の討ち入り」「伊賀越えの仇討ち」に並ぶ、
日本三大仇討ちの一つでが、「矢の根」は、その仇討ちの準備中の話です。

 弟の時致が家で大きな鏃(やじり=矢の根)を研いでいた。そのうち時致が寝てしまうと、
夢の中に兄の祐成が現れ、「今、工藤の館に捕まっているから助けに来てくれ」
と言い残して消えてしまいます。
五郎は跳ね起き、通りがかった馬子から馬を奪って、工藤の館のある大磯へ駆け出します。

 鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」には、
建久4年(1193年)5月、源頼朝が、富士の裾野で盛大な巻狩を開催した際に、
巻狩に参加していた工藤祐経の寝所に、曽我兄弟が押し入り討ち果たしたとされています。
兄の祐成は、集まってきた武士たちに討たれ、弟の時致は、頼朝の館に押し入ったところを
取り押さえられ、後に斬首されたと云われています。

宇治川の先陣争い

 屋台右側の狭間は、
「宇治川の先陣争い」です。
「宇治川の戦い」は、
治承・寿永の乱の戦いの一つ。

宇治川の先陣争い

 平家打倒の為上洛した源義仲は、後白河法皇を幽閉して政権を掌握します。
寿永3年(1184年)1月、鎌倉の源頼朝は、義仲を追討すべく源範頼、源義経を派遣します。
 義経軍が宇治川に到着したとき、宇治橋は義仲軍により壊され、渡ることが出来ません。
対岸で待ち構えていた義仲軍からの矢が降り注ぐ中、
梶原景季と佐々木高綱の二人が、先陣を切ると名乗り出ます。

 この二人、互いに負けられない意地がありました。
景季は、頼朝の名馬「池月(いけづき)」を所望したが聞き入れられず、
代わりに黒い名馬「磨墨(するすみ)」を与えられていました。
にも関わらず、頼朝はこの戦いに際して、池月を高綱に与え、
畏まった高綱は「この馬で必ず先陣を務めます。」と頼朝に誓っていました。
 上洛の途中、池月が高綱に与えられたことを知った景季は、屈辱に感じ、
高綱を殺して自害しようとしましたが、
高綱の「賜ったのではなく盗んだ。」という一言で断念していました。

 初めは磨墨に乗った景季が先行します。
しかし高綱が「馬の腹帯が緩んでいる。」と
景季に声をかけます。
 景季が腹帯を確認している隙に、
高綱は先に宇治川を渡りきり、
敵軍へ先陣を果たします。

佐々木高綱と池月
(池月に乗り宇治川を渡る佐々木高綱)

梶原景季と磨墨
(腹帯を確認する梶原景季)

宇治川先陣之碑
(昭和6年建立 宇治川先陣之碑)

宇治川の中州橘島には、この故事に因んで
宇治川先陣之碑が建てられています。
以前は碑の後ろの川岸にも桜が植えられ
桜の名所だったようですが、
その桜を伐採してまで
護岸工事が欠かせないほど、
この川の流れが激しいということでしょうか。

実際2012年8月に、この付近の支流で
河川の氾濫があったのも記憶に新しいです。

当時は上流にダムもないですし、
容易に比較できるものではないですが、
この水量の中、また矢が飛び交う中、
文字通り命がけ、そして名誉をかけて
戦ったのでしょう。

宇治川
(橘島から対岸 宇治上神社側を望む)

北山田屋台 - 高欄掛


 高欄掛は、平成13年に新調されました。
図柄は、「隠岐次郎左衛門怪鳥退治」「西塔鬼若丸鯉退治」
「源義家龍退治」「加藤清正虎退治」です。

隠岐次郎左衛門怪鳥退治

 屋台前側の高欄掛は、
「隠岐次郎左衛門怪鳥退治」です。
南山田と同じですが、
南が真似をした訳ではありません。
(上でも書いたように、南は人物の
 特定はしていませんので・・・)
北山田の高覧掛は、伝承どおり
怪鳥を矢で射止めているようです。

隠岐次郎左衛門怪鳥退治

西塔鬼若丸鯉退治

西塔鬼若丸鯉退治

 屋台後側の高欄掛は、
「西塔鬼若丸鯉退治」です。
こちらも南と同じ。
偶然です・・・よね。
北山田の高覧掛は弁慶です。

源義家龍退治

 屋台左側の高欄掛は、
「源義家龍退治」です。
源義家は、源頼朝や足利尊氏などの
祖先に当たることから英雄視され、
様々な逸話が生み出されています。
「龍退治」もその一つです。

源義家龍退治

 関東最古の八幡宮とされる大宝八幡宮の伝承では、
噴火で中禅寺湖が干上がってしまい、湖の主の龍が住処を失い大宝沼に移り住みます。
龍が沼の周りの人々や牛馬を襲うようになり、村人が困り果てていたところ、
源義家が奥州征伐の戦勝祈願の為、八幡宮へ立ち寄ったので、村人は龍退治を願いでます。
 義家は快く願いを聞き入れ、沼の縁から矢をかまえると、その威厳に龍は驚いて逃げ出します。
空に舞い上がった龍を助けようと、燕の群れが邪魔をしたので、義家の放った矢は龍の尾にあたってしまい、
龍は命からがら逃げ去りました。
 大宝の里に平和な日々が訪れましたが、村人は龍を助けた燕に怒り、
以後里内に燕の巣をかけさせないといいます。

加藤清正虎退治

加藤清正虎退治

 屋台右側の高欄掛は、
「加藤清正虎退治」です。
加藤清正は、豊臣秀吉の子飼いの家臣で
文禄・慶長の役で朝鮮出征中に
虎を退治したという伝承があります。

 清正の小姓が虎に殺されたため、怒った清正が片鎌槍で撃退したと言われています。
宝塚市にある伊和志津神社には、虎は生け捕りにされ大阪へ運ばれたが、
大阪城内で飼うことが出来ず、伊和志津神社で飼うことになったと言い伝えられています。

 当時、朝鮮半島にはアムール虎(満州虎)やシベリア虎が相当多く生息していたようで、
後藤又兵衛にも虎退治の逸話があります。
又兵衛は、大立回りで仲間の危機を救ったにも係らず、黒田長政に
「大将を務める身でありながら、軽率だ」と叱責されたといいます。
清正の武勇伝とは違い、後の長政との確執を物語る逸話となっています。

屋台紹介 - 西山田屋台


 西山田の屋台は、平成21年に新調された、神輿屋根型屋台です。

以前は反り屋根型布団屋台でしたが、
昭和53年に神輿屋根型屋台を購入。
昭和60年に新調していますので、
現在3代目の神輿屋根型屋台です。

西山田屋台

西山田屋台 - 狭間


 狭間の彫刻は、姫路市土山の大西一生師の作品です。
平成21年の屋台新調時に制作されました。
 場面は、西山田天満神社に祀られる菅原道真で統一され、
「菅公外国使節との接見の場」「菅公雷神化身の場」
「菅公天満大自在天神になる場」「菅公強弓の場」です。

菅公外国使節との接見の場

菅公外国使節との接見の場

 屋台前側の狭間は、
「菅公外国使節との接見の場」です。
菅原道真は、昌泰4年(901年)に
大宰権帥に遷任されています。

 大宰府は朝廷の鎮西総司令部であり、九州地域の兵権、中国(宋)との交易の利権も
集中した地方行政機関です。
権帥はその長官代理のポストですが、長官である大宰帥には皇族が列せられる慣例があることから、
実質的な支配権は権帥が握っていました。
利権を目当てに任命されるものがいる一方、中央で失脚した大臣経験者の左遷ポストとなることも多く、
道真も藤原時平らの陰謀により左遷されたと言われています。(昌泰の変)
 実質は謀反人に対する流罪の待遇であり、雨漏りしたりする家に住まされ、
毎日の食事もまともに食べられない状況だったようです。
  それでもいつの日か疑いが晴れて都に戻れる日を夢見ながら、2年後に亡くなっています。

菅公雷神化身の場

 屋台後側の狭間は、「菅公雷神化身の場」です。
道真の死後、京で異変が相次ぎます。

菅公雷神化身の場

 まず、政敵藤原時平が39歳の若さで病死、醍醐天皇の皇子で東宮の保明親王(時平の甥)、
その息子で皇太孫となった慶頼王(時平の外孫)が次々に病死。
延長8年(930年)朝議中の清涼殿が落雷を受け、昌泰の変に関与したとされる
大納言藤原清貫をはじめ多くの死傷者が出ます。
それを目撃した醍醐天皇も体調を崩し、3ヶ月後に崩御。これらを道真の祟りだと恐れた朝廷は、
道真の罪を赦すと共に贈位を行い、子供たちも流罪を解かれ、京に呼び返されます。

 清涼殿落雷の事件から、道真の怨霊は雷神と結びつけられるようになり、
火雷天神が祭られていた京都の北野に北野天満宮を建立して道真の祟りを鎮めようとします。
以降、百年ほど大災害が起きるたびに道真の祟りとして恐れられます。

菅公天満大自在天神になる場

菅公天満大自在天神になる場

 屋台左側の狭間は、
「菅公天満大自在天神になる場」です。
 元々、天神とは国津神に対する天津神のことで
特定の神様の名ではなかったのですが、
道真が死後、火雷天神と呼ばれるようになり、
「天神様」として畏怖・祈願の対象となりました。

 日本には御霊信仰といって、天災や疫病の発生を、怨みを持って死んだり非業の死を遂げた人間の
「怨霊」のしわざと見なして畏怖し、これを鎮めて「御霊」とすることにより祟りを免れ、
平穏と繁栄を実現しようとする信仰があります。
崇徳上皇や安徳天皇、順徳上皇など諡号に「徳」の付く天皇は、怨霊化を防ぐためといわれていて、
このことから聖徳太子も、元々怨霊として畏れられたのではという説もあります。

 菅原道真もその代表的な例です。
(別の名で日本太政威徳天とも呼ばれています。ここにも「徳」の字が付いています。)
ただ怨霊となって畏れられた為、神の称号を贈られた・・・では具合が悪いのでしょう、
大宰府に流刑された道真が、天拝山に身を清めて登り、自らの無実と国家の安泰を天に祈り、
神様から「天満大自在天」の称号を得たとも言われています。
災害の記憶が風化するに従い生前優れた学者・詩人であったことから、
後に学問の神様として信仰されるようになります。

菅公強弓の場

 屋台左側の狭間は、「菅公強弓の場」です。
学問の神様と知られる道真ですが、
武芸(弓道)にも優れていたとされています。

菅公強弓の場

 師である都良香が、普段勉学ばかりしている道真に弓を射させてみたところ、
百発百中で的を射たとされる場面。
右側に座っているのが、都良香でしょうか。彼は道真が的を射るのを見て
道真が対策(官吏の登用試験)に及第する兆候だと予言したとか。
後に道真に昇進で先を越された良香は、怒って官職を辞し、山に籠ってしまったと言われています。
いずれも道真の偉大さを讃えた逸話です。

西山田屋台 - 高欄掛


 高欄掛は、平成14年に新調されました。
図柄は、「源頼政鵺退治」「源義家龍退治」「九尾の狐退治」「渡辺綱茨木童子退治」です。

源頼政鵺退治

 屋台前側の高欄掛は、
「源頼政鵺退治」です。
 源頼政は、平安時代末期の武将です。
平清盛から信頼され、公卿にまで上りますが、
理不尽な平家の振る舞いに憤り、
以仁王の陰謀に加担して挙兵するも、
平家の軍勢に追い詰められ、
平等院で自害しています。

源頼政鵺退治

「平家物語」には、鵺退治の説話が記されています。
近衛天皇が毎晩何かに怯えるようになり、武勇の誉れ高かった頼政が選ばれます。
頼政が郎党の猪早太を従えて御所の庭を警護していたところ、
艮(=北東の方角)から、黒雲が湧き上がり、
その中から頭が猿、胴が狸、手足が虎、尾が蛇という「鵺」と呼ばれる怪物が現れます。
頼政は弓で鵺を射、猪早太が太刀で仕留めます。
天皇の体調もたちまちにして回復し、頼政は天皇から褒美に獅子王という刀を貰賜します。

 鵺の死体は船に乗せて鴨川に流されたという説とは別に、
一頭の馬と化して頼政(嫡男仲綱)に飼われたという説もあります。
「木下」と名付けられたこの馬は良馬だった為、平宗盛に取り上げられ、
それをきっかけに頼政は、平家打倒の挙兵をして自害することになります。
結果的に鵺の怨みが晴らされたということになるのでしょうが、すっきりしませんね。

 平等院境内に頼政の墓があります。
鳳凰堂の裏手、最勝院の庭先に
ひっそりと建てられています。

辞世の句は、
「埋もれ木の花咲くこともなかりしに
 身のなる果てぞ悲しかりける」
しかし彼の挙兵を契機に
諸国の源氏が一斉に兵を挙げ、
平家滅亡へと繋がることになるのです。

源三位頼政公の墓 (平等院境内 源三位頼政公の墓)

源義家龍退治

源義家龍退治

 屋台後側の高欄掛は、
「源義家龍退治」です。
北山田と同じですね。


九尾の狐退治

 屋台左側の高欄掛は、
「九尾の狐退治」です。
人物の特定はされていないようですが、
有名なところでいえば、安倍泰成の
玉藻前の伝説でしょうか。

九尾の狐退治

 九尾の狐は、万単位の年月を生きた古狐が変化した、妖狐の最終形態で、
幸福をもたらす象徴とされる一方、美女に化けて中国殷の紂王、周の幽王などの
妃に化けて国主を困惑させ、国を滅亡へ導いたとされます。
 若藻という少女に化け、遣唐使船で来日したとされていて、
その後鳥羽上皇に仕える女官となり、玉藻前と名乗ります。
上皇は玉藻前を寵愛しますが、次第に病に伏せるようになります。
陰陽師・安倍泰成が、これを玉藻前の仕業と見抜きます。
泰成が真言を唱えると、玉藻前は変身を解かれ、
白面金毛九尾の狐の姿で宮中を脱走し、行方を暗まします。
 その後、那須野が原に潜伏していたところを
三浦介義明、上総介広常の両将に射止められますが、
その悪念は殺生石と化し、近寄る人畜に被害を与えます。
最後は玄翁和尚の法力により成仏したといいます。

渡辺綱茨木童子退治

渡辺綱茨木童子退治

 屋台右側の高欄掛は、
「渡辺綱茨木童子退治」です。
渡辺綱は、坂田金時、卜部季武、
碓井貞光と共に頼光四天王の一人で、
その筆頭として剛勇で知られています。
 茨木童子は、酒呑童子の家来で、
頼光らが酒呑童子を打ち落とした際に、
唯一逃げ延びたとされています。

 綱と童子は、京都の一条戻り橋、または羅生門で戦ったとされていて、
高欄掛の図柄は、羅生門の戦いです。

 大江山の酒呑童子退治の後、源頼光が四天王らと酒を飲んでいたとき、
羅生門に鬼が出るという話になり、一人ずつ肝試しをしようということになりました。
綱の番になったとき、羅生門まで行った証拠に金札(禁札)を立ててくることになり、
綱は金札を持って羅生門まで行きますが、鬼は現れません。
金札を立てて帰ろうとするとき、茨木童子が襲い掛かってきます。
綱は、源氏の宝刀「髭切」で童子の腕を切り落とします。

 その後、童子は綱の伯母に化けて、綱を騙して腕を取り返したとされています。
腕を取り返した後、摂津(茨木市)の実家へ帰ったとも伝えられています。
 鬼と伝えられる割に、この童子はその境遇のせいか、かなり親しまれていて、
茨木市観光協会のサイトでは「いばらき童子」「童子クン」としてマスコットになっています。